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静子さんのご主人、かっこよすぎる。どんなことがあっても別れないって。この一言に胸がグッとなった。
静子さんの「原爆の生き証人として生きて行く、どうぞわたしの姿を見てください」の一言には並々ならぬ覚悟を感じ、心が動かされましたね。
静子さんの日本語が大変綺麗で涙が出ました。当分このように正確な日本語を聴かずに久しかったです。20代ながら、丁寧な日本語を再習得したいと思います。
火傷したくて火傷したわけじゃない被爆したくて被爆したわけじゃないのに🥲︎聞くだけで辛かったです。よく生きてきてくださいました。静子さんが強く素敵だから旦那様も優しく素敵なのですね。
私もそう思います。素敵なご夫婦です。
なんとうつくしい方なのでしょう。言葉の選び方が素晴らしいですし、見習いたいと思いました。庭田さんの活動にも敬服します。
日本で生まれた者です。人生の大半を英国ですごし夫のくにドイツにおります。毎日心ない人たちの差別的なことばに驚いた3年でしたがいまになってやっとその言葉は恐れという目に見えないものによるものだと理解できるようになりました。見せていただく機会に恵まれたことに感謝します
熱い記者だね。広島や長崎、沖縄に産まれた子達は戦争が身近だからなのか良い人材が地元に戻るね。東京や大阪に出て来ても帰っていく人が多い。阿部さんは97歳とは思えぬほどにしっかり立って話もできている。元気に生きる。今世で伝えて欲しいことがあるからまだ活かされてるとも思える。
自分は頭が悪いから言語化が出来ないんだけど、この動画でめちゃくちゃ心が揺さぶられた。この気持ちが何なのか、自分の中で整理をして、上手に言葉にして後世に伝えていけるようになりたい。
庭田さんの活動素晴らしいです。濵井さんや静子さんのお話から色々な想いが感じられます。ご自身が生きて来た証、次の時代に引き継がれて行くことや明るい未来を願い期待するお気持ち、次の世代を担う私たちが受け継いで行きたいです。濵井さんもそうですが、静子さんも完成したお写真を受け取る日、挨拶のときからすごく明るい笑顔で嬉しくなりました。
たまたま8/4に、新藤兼人監督の「原爆の子」の上映会へ行きました。その中に、原爆の被害に遭って家の下敷きになり足が不自由になった女性が、戦地から復員してきた婚約者と5年の歳月を経て結婚するシーンがあり。その復員してきた婚約者は、生活を立て直すまで結婚は5年待ってくれと言いその言葉通りに基盤を作り結婚となるシーンは涙が出ましたね。花嫁衣装や花嫁道具の支度はできずとも、です。体が不自由になったから、とか、被爆しているから、家族に被爆した人がいるから、広島出身だからなどという理由で破談にされたり、差別された人はたくさんおられたと思います。命は助かっても、偏見や差別に遭っていたしずこさん…。どんなにお辛かったことかと。だけど夫という心強い存在が支えになりましたね…他の方もお書きになってありますが、言葉が丁寧で美しいですね。彼女に対して差別的な言葉を投げかけていた人とはそうした点でももう、環境(家庭教育)の違いや彼女の素養が窺い知れます。
とても素敵なご夫婦です。こんなに丁寧に原爆体験を、お伝えされて来た静子さん。ご主人の力強い、お言葉素晴らしいです。
戦争中の写真や映像って白黒だから遠い昔のことのように思うけど、カラーにする事で近くなる。どの時代も鮮やかな色があって そこで人々が生きてたんだよな…
本当に美しい方だと思います。ご主人様の愛情も素晴らしく、自然と涙が溢れました。本当に本当にありがとうございます。
旦那さんの離縁できませんに他人ながら泣いてしまいました。
他人ながらとかいちいち言う人なんなんだろ
@@kojirou.事実やん私も動画最後まで見たけど涙出ましたわ。静子さん御本人は女性としてとても嬉しかったと思いますよ。何もしない口だけの偽善者より、正直に他人だけどって言う方が事実だと思う。
私も、涙が出ましたね…他人ながら、とつけてもおかしいとは思いませんよ、私は。人の素直な思いのコメントに、いちいちケチつける方が…感じ方や表現の仕方はそれぞれ。他人を傷つけたり不快にさせる表現ではないと思います。
庭田さんの活動と阿部さんの声がもっと多くの人に届く事が必要だと思う庭田さん、ありがとう阿部さん、ありがとう広島TVの関係者の皆様ありがとう改めて平和で生活できることに対して、感謝して過ごしていきたいともいます
《歷史真相》1945.08.06,美軍於日本廣島投擲第一顆原子彈。1945.08.09,美軍於日本長崎投擲第二顆原子彈。08.14,日本正式(宣布無條件投降)投降。「中蘇友好同盟條約」簽訂(1945.08.26公布)。蔣委員長電邀毛澤東來重慶共商國事(第一封電)。08.15,中國戰區盟軍最高統帥蔣總司令命令日本駐華派遣軍最高指揮官岡村寧次投降。08,16,毛澤東電覆蔣委員長(第一封電)並附有朱德向政府提出六項要求之電文。08.20,蔣委員長再次電邀毛澤東來重慶共定大計(第二封電)同意為了「團結大計」,特先派周恩來至重慶進謁。08.28,毛澤東赴重慶,展開戰後第一回合國共談判。09.02,外交部長王世杰與毛澤東對談,討論關於政治會議問題、國民大會問題、自由問題、關於政黨問題、關於釋放政治犯問題、關於所謂的「解放區行政」問題、關於中共軍隊問題、受降問題等八項問題。09.04,國共第一次會談。國民政府代表:張群、邵力子、張治中;中共代表:周恩來、王若飛。09.04,政府代表王世杰前往倫敦參加五國外長會議(到1945.10.08回國)。09.08,國共第二次會談。雙方談判代表同上。09.09,何應欽將軍在南京代表接受日本中國戰區總投降。09.10,國共第三次會談。雙方代表同上。09.11,國共第四次會談。國民政府代表張群、邵力子、葉楚傖、張厲生;中共代表:周恩來、王若飛。09.12,國共第五次會談。同上。09.15,國共第六次會談。同上。09.19,國共第七次會談。同上。09.21,國共第八次會談。同上。09.27,國共第九次會談。同上。09.28,國共第十次會談。同上。10.02,國共第十一次會談。同上。10.05,國共第十二次會談。同上。10.20,張群、王世杰、邵力子與周恩來、王若飛在重慶恢復談判,就政治協商會議、恢復交通、停止進兵等問題進行商談,之後三天陸續談判。11.27,赫爾利大使辭職。12.15,美國杜魯門總統發表「杜魯門總統談美國對中國的政策」聲明。12.23,馬歇爾與民主同盟之代表會談。12.27,共產黨提交給國民政府一份三點提案停火協議。12.29,馬歇爾向杜魯門總統提出報告。1945.12.31,國民政府回應共產黨亦提交一份三點停火協議。1946.01.13,國共雙方停戰令生效(一月停戰令)。03.09,在馬歇爾的壓力之下,蔣委員長同意調處執行部的小組進入東北。03.16,國民政府宣布國民黨一致通過政協會議之決議。05.05,國民政府還都南京。07.07,中共發表「中國共產黨中央委員會為記念「七七」九周年宣言」。07.14,蔣委員長離開南京前往廬山。07.15,中國民主同盟中央委員聞一多被殺。(李、聞被刺案後,國民政府中央派遣人員到昆明調查,偵查確定為特務連長湯時亮、排長李文山所為,遂將兩人拘捕,經審判處死刑,並將警備司令霍揆彰撤職。)08.18,杜魯門總統發布行政命令禁止對國民政府出售美國戰爭剩餘物資,國務院停止批准向國民政府出口作戰用軍事裝備的許可證。09.16,周恩來離開南京前往上海,談判中斷。10.05,因為談判持續停頓以及軍事衝突擴大,馬歇爾電請杜魯門總統將他召回。10.08,中共駐京代表王炳南向司徒大使轉述周恩來自延安轉來有關十日停戰建議之口頭答覆。中共之答覆為拒絕停戰之建議。同日,馬歇爾和司徒雷登發表第二次聯合聲明。10.11,國民政府攻下張家口和赤峰。同日,國民政府宣布11月12月召開國民大會。11.09,國民政府三人委員會代表陳誠要求馬歇爾召開三人委員會會議。1946.11.15,國民大會正式召開,出席的代表為國民黨籍、青年黨和無黨派人士。社會民主黨代表也在稍後出席了大會,但民主同盟卻沒有參加會議。1946.12.18,杜魯門總統發表了他的對華政策聲明。他重申了美國於一個「團結民主的中國」對世界和平有極重要意義的信念。(看懂的人就會知道共產黨為什麼會打敗國民黨)(中國人是善良有愛心的民族,是不會輕易發起戰爭的。反觀日本人喜歡侵略別人,日本人如果不懺悔改過,下次戰爭死亡人數會超過兩顆原子彈!)佛言:「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」
春に都内の大学で展示見ました。白黒の写真はどこか現実味がないんですよね。カラーになる事で一気に現実味を帯びる。当たり前だけど一人ひとりに生活がありそこに生きていたという事を改めて感じることができました。
今年も、また「その日」がきますね。
食べ物に感謝していただく姿素晴らしいですね。
悲しいことだけど全体から見たら幸運な方なんだろうな妻は原爆を生き延び夫も戦地から生きて帰ってきた。戦地から帰ってきても内地に残した家族は原爆や空襲で亡くなってた、原爆や空襲を生き延びても夫は戦死してた、あるいはその両方なんてのは珍しくなかっただろうし。
私も戦争を知らない世代ですが、父は縁故疎開をしていた栃木県佐野市で、庭で遊んでいた時にB29の連射にあい、危うく撃たれ死ぬところだったそうです。モノクロ写真に生命を宿してくださって、庭田さん、ありがとう。
庭田さん、頑張って👍
話し方も仕草も上品な静子さん、どうか何時までもお元気で。ご主人様も素晴らしい方だったのですね。
素敵な日本語ですね。しかし…こんな事があっても人間は全然成長しないで未だに戦争してるし、最悪です。
三郎さんが男前過ぎる。
昔修学旅行で広島に行った時、証言して下さる方のお話を聞いたのですが、静子様だったかもしれません。赤鬼と呼ばれて悲しかったというお話が今でもとても印象に残っております。貴重なお話をしていただき本当にありがとうございます。
静子さん…私の母と同じ名前です。私は、戦争の事は…両親から聞き、地元の資料館を息子と見に行ったり、本を読んだり…映画とかをみたり…今もネットを見て…本当に…戦争は辞めて欲しい‼️願いです。原爆資料館を観ています。すごい衝撃で…今でも、息子も忘れません‼️本当に、戦争は駄目‼️😠自分の息子が、戦地にと思うと…泣き😢ました❗夫も同じ気持ち、思いです。戦争、反対‼️😠
東大でカラー化してる学生の記事は以前読んだけどその人が広島で記者になったのか。がんばれー
良かった気がする😢思い出の写真、素敵だね、悲しいけど😢こんな事は2度と会ってはならないですね😢
無意味な犠牲であったと言わせない。最後の一人になるまで
戦争を起こす領土侵略を無くさなければ。国民は皆、戦争被害者だ。
まだお若い頃の阿部さんの証言を動画で拝見したことがありました。(お名前で検索するとRUclips動画が出てきますね)まだお元気でいらっしゃって、再びお話が聞けた事に嬉しく思いました。
這是台灣唯一分享
素敵な内容なのに、女性のナレーションのせいで台無し😢
物語を作りすぎているね。
静子さんのご主人、かっこよすぎる。どんなことがあっても別れないって。この一言に胸がグッとなった。
静子さんの「原爆の生き証人として生きて行く、どうぞわたしの姿を見てください」の一言には並々ならぬ覚悟を感じ、心が動かされましたね。
静子さんの日本語が大変綺麗で涙が出ました。当分このように正確な日本語を聴かずに久しかったです。20代ながら、丁寧な日本語を再習得したいと思います。
火傷したくて火傷したわけじゃない被爆したくて被爆したわけじゃないのに🥲︎
聞くだけで辛かったです。よく生きてきてくださいました。
静子さんが強く素敵だから旦那様も優しく素敵なのですね。
私もそう思います。素敵なご夫婦です。
なんとうつくしい方なのでしょう。言葉の選び方が素晴らしいですし、見習いたいと思いました。庭田さんの活動にも敬服します。
日本で生まれた者です。人生の大半を英国ですごし夫のくにドイツにおります。毎日心ない人たちの差別的なことばに驚いた3年でしたがいまになってやっとその言葉は恐れという目に見えないものによるものだと理解できるようになりました。見せていただく機会に恵まれたことに感謝します
熱い記者だね。広島や長崎、沖縄に産まれた子達は戦争が身近だからなのか良い人材が地元に戻るね。東京や大阪に出て来ても帰っていく人が多い。
阿部さんは97歳とは思えぬほどにしっかり立って話もできている。元気に生きる。今世で伝えて欲しいことがあるからまだ活かされてるとも思える。
自分は頭が悪いから言語化が出来ないんだけど、この動画でめちゃくちゃ心が揺さぶられた。
この気持ちが何なのか、自分の中で整理をして、上手に言葉にして後世に伝えていけるようになりたい。
庭田さんの活動素晴らしいです。濵井さんや静子さんのお話から色々な想いが感じられます。ご自身が生きて来た証、次の時代に引き継がれて行くことや明るい未来を願い期待するお気持ち、次の世代を担う私たちが受け継いで行きたいです。濵井さんもそうですが、静子さんも完成したお写真を受け取る日、挨拶のときからすごく明るい笑顔で嬉しくなりました。
たまたま8/4に、新藤兼人監督の「原爆の子」の上映会へ行きました。
その中に、原爆の被害に遭って家の下敷きになり
足が不自由になった女性が、戦地から復員してきた婚約者と5年の歳月を経て結婚するシーンがあり。
その復員してきた婚約者は、生活を立て直すまで結婚は5年待ってくれと言い
その言葉通りに基盤を作り結婚となるシーンは涙が出ましたね。
花嫁衣装や花嫁道具の支度はできずとも、です。
体が不自由になったから、とか、被爆しているから、家族に被爆した人がいるから、広島出身だからなどという理由で
破談にされたり、差別された人はたくさんおられたと思います。
命は助かっても、偏見や差別に遭っていたしずこさん…。
どんなにお辛かったことかと。
だけど夫という心強い存在が支えになりましたね…
他の方もお書きになってありますが、言葉が丁寧で美しいですね。
彼女に対して差別的な言葉を投げかけていた人とは
そうした点でももう、環境(家庭教育)の違いや
彼女の素養が窺い知れます。
とても素敵なご夫婦です。こんなに丁寧に原爆体験を、お伝えされて来た静子さん。ご主人の力強い、お言葉
素晴らしいです。
戦争中の写真や映像って白黒だから遠い昔のことのように思うけど、カラーにする事で近くなる。どの時代も鮮やかな色があって そこで人々が生きてたんだよな…
本当に美しい方だと思います。ご主人様の愛情も素晴らしく、自然と涙が溢れました。本当に本当にありがとうございます。
旦那さんの離縁できませんに他人ながら泣いてしまいました。
他人ながらとかいちいち言う人なんなんだろ
@@kojirou.事実やん
私も動画最後まで見たけど涙出ましたわ。
静子さん御本人は女性としてとても嬉しかったと思いますよ。
何もしない口だけの偽善者より、正直に他人だけどって言う方が事実だと思う。
私も、涙が出ましたね…
他人ながら、とつけてもおかしいとは思いませんよ、私は。
人の素直な思いのコメントに、いちいちケチつける方が…
感じ方や表現の仕方はそれぞれ。
他人を傷つけたり不快にさせる表現ではないと思います。
庭田さんの活動と阿部さんの声がもっと多くの人に届く事が必要だと思う
庭田さん、ありがとう
阿部さん、ありがとう
広島TVの関係者の皆様ありがとう
改めて平和で生活できることに対して、感謝して過ごしていきたいともいます
《歷史真相》
1945.08.06,美軍於日本廣島投擲第一顆原子彈。
1945.08.09,美軍於日本長崎投擲第二顆原子彈。
08.14,日本正式(宣布無條件投降)投降。「中蘇友好同盟條約」簽訂(1945.08.26公布)。蔣委員長電邀毛澤東來重慶共商國事(第一封電)。
08.15,中國戰區盟軍最高統帥蔣總司令命令日本駐華派遣軍最高指揮官岡村寧次投降。
08,16,毛澤東電覆蔣委員長(第一封電)並附有朱德向政府提出六項要求之電文。
08.20,蔣委員長再次電邀毛澤東來重慶共定大計(第二封電)同意為了「團結大計」,特先派周恩來至重慶進謁。
08.28,毛澤東赴重慶,展開戰後第一回合國共談判。
09.02,外交部長王世杰與毛澤東對談,討論關於政治會議問題、國民大會問題、自由問題、關於政黨問題、關於釋放政治犯問題、關於所謂的「解放區行政」問題、關於中共軍隊問題、受降問題等八項問題。
09.04,國共第一次會談。國民政府代表:張群、邵力子、張治中;中共代表:周恩來、王若飛。
09.04,政府代表王世杰前往倫敦參加五國外長會議(到1945.10.08回國)。
09.08,國共第二次會談。雙方談判代表同上。
09.09,何應欽將軍在南京代表接受日本中國戰區總投降。
09.10,國共第三次會談。雙方代表同上。
09.11,國共第四次會談。國民政府代表張群、邵力子、葉楚傖、張厲生;中共代表:周恩來、王若飛。
09.12,國共第五次會談。同上。
09.15,國共第六次會談。同上。
09.19,國共第七次會談。同上。
09.21,國共第八次會談。同上。
09.27,國共第九次會談。同上。
09.28,國共第十次會談。同上。
10.02,國共第十一次會談。同上。
10.05,國共第十二次會談。同上。
10.20,張群、王世杰、邵力子與周恩來、王若飛在重慶恢復談判,就政治協商會議、恢復交通、停止進兵等問題進行商談,之後三天陸續談判。
11.27,赫爾利大使辭職。
12.15,美國杜魯門總統發表「杜魯門總統談美國對中國的政策」聲明。
12.23,馬歇爾與民主同盟之代表會談。
12.27,共產黨提交給國民政府一份三點提案停火協議。
12.29,馬歇爾向杜魯門總統提出報告。
1945.12.31,國民政府回應共產黨亦提交一份三點停火協議。
1946.01.13,國共雙方停戰令生效(一月停戰令)。
03.09,在馬歇爾的壓力之下,蔣委員長同意調處執行部的小組進入東北。
03.16,國民政府宣布國民黨一致通過政協會議之決議。
05.05,國民政府還都南京。
07.07,中共發表「中國共產黨中央委員會為記念「七七」九周年宣言」。
07.14,蔣委員長離開南京前往廬山。
07.15,中國民主同盟中央委員聞一多被殺。(李、聞被刺案後,國民政府中央派遣人員到昆明調查,偵查確定為特務連長湯時亮、排長李文山所為,遂將兩人拘捕,經審判處死刑,並將警備司令霍揆彰撤職。)
08.18,杜魯門總統發布行政命令禁止對國民政府出售美國戰爭剩餘物資,國務院停止批准向國民政府出口作戰用軍事裝備的許可證。
09.16,周恩來離開南京前往上海,談判中斷。
10.05,因為談判持續停頓以及軍事衝突擴大,馬歇爾電請杜魯門總統將他召回。
10.08,中共駐京代表王炳南向司徒大使轉述周恩來自延安轉來有關十日停戰建議之口頭答覆。中共之答覆為拒絕停戰之建議。同日,馬歇爾和司徒雷登發表第二次聯合聲明。
10.11,國民政府攻下張家口和赤峰。同日,國民政府宣布11月12月召開國民大會。
11.09,國民政府三人委員會代表陳誠要求馬歇爾召開三人委員會會議。
1946.11.15,國民大會正式召開,出席的代表為國民黨籍、青年黨和無黨派人士。社會民主黨代表也在稍後出席了大會,但民主同盟卻沒有參加會議。
1946.12.18,杜魯門總統發表了他的對華政策聲明。他重申了美國於一個「團結民主的中國」對世界和平有極重要意義的信念。
(看懂的人就會知道共產黨為什麼會打敗國民黨)
(中國人是善良有愛心的民族,是不會輕易發起戰爭的。反觀日本人喜歡侵略別人,日本人如果不懺悔改過,下次戰爭死亡人數會超過兩顆原子彈!)
佛言:「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」
《歷史真相》
1945.08.06,美軍於日本廣島投擲第一顆原子彈。
1945.08.09,美軍於日本長崎投擲第二顆原子彈。
08.14,日本正式(宣布無條件投降)投降。「中蘇友好同盟條約」簽訂(1945.08.26公布)。蔣委員長電邀毛澤東來重慶共商國事(第一封電)。
08.15,中國戰區盟軍最高統帥蔣總司令命令日本駐華派遣軍最高指揮官岡村寧次投降。
08,16,毛澤東電覆蔣委員長(第一封電)並附有朱德向政府提出六項要求之電文。
08.20,蔣委員長再次電邀毛澤東來重慶共定大計(第二封電)同意為了「團結大計」,特先派周恩來至重慶進謁。
08.28,毛澤東赴重慶,展開戰後第一回合國共談判。
09.02,外交部長王世杰與毛澤東對談,討論關於政治會議問題、國民大會問題、自由問題、關於政黨問題、關於釋放政治犯問題、關於所謂的「解放區行政」問題、關於中共軍隊問題、受降問題等八項問題。
09.04,國共第一次會談。國民政府代表:張群、邵力子、張治中;中共代表:周恩來、王若飛。
09.04,政府代表王世杰前往倫敦參加五國外長會議(到1945.10.08回國)。
09.08,國共第二次會談。雙方談判代表同上。
09.09,何應欽將軍在南京代表接受日本中國戰區總投降。
09.10,國共第三次會談。雙方代表同上。
09.11,國共第四次會談。國民政府代表張群、邵力子、葉楚傖、張厲生;中共代表:周恩來、王若飛。
09.12,國共第五次會談。同上。
09.15,國共第六次會談。同上。
09.19,國共第七次會談。同上。
09.21,國共第八次會談。同上。
09.27,國共第九次會談。同上。
09.28,國共第十次會談。同上。
10.02,國共第十一次會談。同上。
10.05,國共第十二次會談。同上。
10.20,張群、王世杰、邵力子與周恩來、王若飛在重慶恢復談判,就政治協商會議、恢復交通、停止進兵等問題進行商談,之後三天陸續談判。
11.27,赫爾利大使辭職。
12.15,美國杜魯門總統發表「杜魯門總統談美國對中國的政策」聲明。
12.23,馬歇爾與民主同盟之代表會談。
12.27,共產黨提交給國民政府一份三點提案停火協議。
12.29,馬歇爾向杜魯門總統提出報告。
1945.12.31,國民政府回應共產黨亦提交一份三點停火協議。
1946.01.13,國共雙方停戰令生效(一月停戰令)。
03.09,在馬歇爾的壓力之下,蔣委員長同意調處執行部的小組進入東北。
03.16,國民政府宣布國民黨一致通過政協會議之決議。
05.05,國民政府還都南京。
07.07,中共發表「中國共產黨中央委員會為記念「七七」九周年宣言」。
07.14,蔣委員長離開南京前往廬山。
07.15,中國民主同盟中央委員聞一多被殺。(李、聞被刺案後,國民政府中央派遣人員到昆明調查,偵查確定為特務連長湯時亮、排長李文山所為,遂將兩人拘捕,經審判處死刑,並將警備司令霍揆彰撤職。)
08.18,杜魯門總統發布行政命令禁止對國民政府出售美國戰爭剩餘物資,國務院停止批准向國民政府出口作戰用軍事裝備的許可證。
09.16,周恩來離開南京前往上海,談判中斷。
10.05,因為談判持續停頓以及軍事衝突擴大,馬歇爾電請杜魯門總統將他召回。
10.08,中共駐京代表王炳南向司徒大使轉述周恩來自延安轉來有關十日停戰建議之口頭答覆。中共之答覆為拒絕停戰之建議。同日,馬歇爾和司徒雷登發表第二次聯合聲明。
10.11,國民政府攻下張家口和赤峰。同日,國民政府宣布11月12月召開國民大會。
11.09,國民政府三人委員會代表陳誠要求馬歇爾召開三人委員會會議。
1946.11.15,國民大會正式召開,出席的代表為國民黨籍、青年黨和無黨派人士。社會民主黨代表也在稍後出席了大會,但民主同盟卻沒有參加會議。
1946.12.18,杜魯門總統發表了他的對華政策聲明。他重申了美國於一個「團結民主的中國」對世界和平有極重要意義的信念。
(看懂的人就會知道共產黨為什麼會打敗國民黨)
(中國人是善良有愛心的民族,是不會輕易發起戰爭的。反觀日本人喜歡侵略別人,日本人如果不懺悔改過,下次戰爭死亡人數會超過兩顆原子彈!)
佛言:「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」
春に都内の大学で展示見ました。
白黒の写真はどこか現実味がないんですよね。カラーになる事で一気に現実味を帯びる。当たり前だけど一人ひとりに生活がありそこに生きていたという事を改めて感じることができました。
今年も、また「その日」がきますね。
食べ物に感謝していただく姿
素晴らしいですね。
悲しいことだけど全体から見たら幸運な方なんだろうな
妻は原爆を生き延び夫も戦地から生きて帰ってきた。
戦地から帰ってきても内地に残した家族は原爆や空襲で亡くなってた、原爆や空襲を生き延びても夫は戦死してた、あるいはその両方なんてのは珍しくなかっただろうし。
私も戦争を知らない世代ですが、父は縁故疎開をしていた栃木県佐野市で、庭で遊んでいた時にB29の連射にあい、危うく撃たれ死ぬところだったそうです。
モノクロ写真に生命を宿してくださって、庭田さん、ありがとう。
庭田さん、頑張って👍
話し方も仕草も上品な静子さん、どうか何時までもお元気で。ご主人様も素晴らしい方だったのですね。
素敵な日本語ですね。
しかし…こんな事があっても人間は全然成長しないで未だに戦争してるし、最悪です。
三郎さんが男前過ぎる。
昔修学旅行で広島に行った時、証言して下さる方のお話を聞いたのですが、静子様だったかもしれません。赤鬼と呼ばれて悲しかったというお話が今でもとても印象に残っております。貴重なお話をしていただき本当にありがとうございます。
静子さん…私の母と同じ名前です。
私は、戦争の事は…両親から聞き、地元の資料館を息子と見に行ったり、本を読んだり…映画とかをみたり…今もネットを見て…
本当に…戦争は辞めて欲しい‼️願いです。
原爆資料館を観ています。
すごい衝撃で…今でも、息子も忘れません‼️
本当に、戦争は駄目‼️😠
自分の息子が、戦地にと思うと…泣き😢ました❗夫も同じ気持ち、思いです。
戦争、反対‼️😠
東大でカラー化してる学生の記事は以前読んだけどその人が広島で記者になったのか。
がんばれー
良かった気がする😢思い出の写真、素敵だね、悲しいけど😢こんな事は2度と会ってはならないですね😢
無意味な犠牲であったと言わせない。最後の一人になるまで
戦争を起こす領土侵略を無くさなければ。国民は皆、戦争被害者だ。
まだお若い頃の阿部さんの
証言を動画で拝見したことがありました。
(お名前で検索するとRUclips動画が出てきますね)
まだお元気でいらっしゃって、
再びお話が聞けた事に嬉しく思いました。
這是台灣唯一分享
素敵な内容なのに、
女性のナレーションのせいで台無し😢
物語を作りすぎているね。